夜の詩






まだ汗ばむような熱気が残る真夏の夕方、李家の執事長の任務にもう三十余年も就いている偉は、別棟の瑞鳳殿、日本でいう「蔵」の扉が開いているのに気付いた。
貴金属類はないが、ある者にとってはそれ以上に貴重な価値をもつ物がそこに納められている。その瑞鳳殿の扉は普段は厳重に閉じられており、そこを開ける事が出来るのは一族のほんの一握りの上層部だけだった。

「こんな時間に、扉が・・・?」
もう老齢と言えるその年齢にそぐわない霊力・体力を宿している偉は、場合によってはと体勢を整え、静かに扉と壁の隙間に体を忍ばせる。

「・・・奥様でございましたか。」
偉の驚きとも安堵ともとれる声に、振り向いた妙齢の女性―――夜蘭の手には、小さなガラスケースに包まれた人形が有る。
「あぁ、驚かせてしまいました。ごめんなさい、偉。」
そう言い、再びそのガラスケースに視線を戻す。
「・・・探し物をしていたら、懐かしいものをみつけました。」
見て頂戴、と偉の目の前にガラスケースを差し出す。

こんな時の夜蘭は、李一族の当主らしからぬ表情を浮かべる。
きっと小狼様に関係あるものなのだ、と偉は推察する。

「これは、日本の人形でございますね。たしか、ハカタニンギョウと・・・」
その通りよ、という風に夜蘭は笑った。
「何年も前に、何かの折に頂いた物です。しばらく飾っていたのよ、私。」

あれは、もう6、7年も前の事だろうか、そんなに高価な物でも珍しい物でもないこの人形を、夜蘭は思いのほか気に入って自分の寝室に持ち運んだ。
小さな女の子が袴姿で首をかしげている姿で、博多人形独特のふんわりとした柔らかさに満ちている。それでいて、芯の強さを表すその表情。
その名の通り、まさに『大和撫子』である。

「―――そうしたら、あの子・・小狼が、この人形を見て、これはだれだと私に聞くの。」
夜蘭はすっかり母親の顔になっている。
めったにみせない表情を目にし、偉は温かい想いになった。

「『大和撫子』よと教えてあげたら、どこにいるんだって聞くから、日本にいるのよ、と答えたわ。すると、日本はどこにあるんだって聞くものだから・・・・」
「・・・なんとお答えに?」
きっと、まだ小狼様が李家を離れたことが無い頃のお話しだ、と偉は思った。

「・・・あの山の向こうの海より遠い、はるか彼方ですよ、と答えると、小狼はふーんと言ったきり、その人形をいつまでも見つめて離れようとしなかった・・・」

その後間もなくである、まだまだ李家を出ようとしなかった小狼が、突然自分も任務につくと言い出したのは。
そのとき以来、夜蘭はそのガラスケースの人形を、瑞鳳殿にしまいこんでしまった。

「それから私と小狼は母子ではなく、当主と当主候補としての関係になりました。寂しくなかったと言えば嘘になりますが、最初からお互い覚悟の上でしたから・・・いえ、まだまだ幼かった小狼にとっては覚悟も何も、酷な運命だったのかもしれません。」
「奥様・・・小狼様は、広く深い心の持ち主でございます。決して運命に流されているとはお考えになっていないことでしょう。」
偉の言葉に夜蘭は少し慰められたのか、めずらしく小狼の話を続けた。

「小狼がその日本にクロウ・カードを集めに行くことが長老会議で決定された時、正直言って心のどこかで、もう小狼は帰ってこないかもしれないと思いました。もう、私の息子としては・・・」
「―――奥様・・」
夜蘭は、言葉を続ける。

「・・だから、あの子がカードの件が全て終わり、自ら『香港に戻る』と私にはっきりと告げたとき、本当に嬉しかった・・・。それが、私への思いやりからだと言う事は判っていましたが、私はあの時日本への滞在をそれ以上は勧めなかった。――小狼を、まだ手放したくなかった―――」
夜蘭は、『大和撫子』を持ったまま瑞鳳殿の扉を開け、真っ赤に燃える夕日を浴びた。
偉も続いて扉をくぐり、厳重にその鍵をかける。


「けれどもう、あの子にとって香港は自分の居場所ではなかった。心を日本に置き去りにしてきた小狼を見るのはつらかったけれど、かえって訣別を覚悟することができました。
今は・・・・・今は、自分の未来をその手でつかもうとしている小狼を、その姿を静かに見守るだけ・・・」
「小狼様は、奥様の気持ちを十分おわかりになっています。だからこそ、あのような強引
ともいえる方法を、ご自分の意志だけでお決めになった・・・。」

次期当主として李家を守る方法を、そして愛するものを守る方法を、他に考えつかなかった小狼。
(バカな子・・・。一族の哀しみをたった一人で背負うと言うの?)

夜蘭の眼は、はるか彼方の小狼を見ている。
本当に見えているのだ、と偉は思った。

「小狼、お前は分かっているのでしょうか。どんなに貴方の幸せを私が願っているか――」

願わくは―――どんな運命が待受けていても、顔を上げて光の中を歩いて欲しい。
自分の信じた道を・・・・

夜蘭は、夕日に祈るようにその思いを馳せた。




   




学校の帰り道、暮れなずむ夕日を眺めながらさくらと桜並木道を歩いていた小狼は、ふと足を止めた。

「どうしたの?」小狼の顔を覗き込むさくら。

小狼は、空間の何かを捕える仕草をした。
「いや・・・。いま、誰かの『想い』が目の前を通り過ぎていった。」

「え?どこどこ」さくらは、辺りを見回す。

小狼は、握った掌を開きながら言った。

「―――つかもうとしたら、・・・不意に消えてしまったよ。」
一瞬触れた、それはなんて温かくて、なんて哀しい『想い』だったろう―――

(とても懐かしい感じがした。)
小狼は何かを思い出しかけていたが、その時さくらの肩に季節はずれのアゲハチョウが止まっているのに気付き手を伸ばした。美しいが、見たことの無い模様だ。

「(待って!!)」
その美しい蝶に触れる瞬間、さくらは小声で小狼を制し、自分の口にしいっと人差し指を立てて当てた。

「・・・羽を休めているの・・・」
そうつぶやき、限りない友愛に満ちた瞳でそのアゲハチョウを見つめている。


ほんの数分しか経っていなかったと後になって思うが、そのアゲハチョウは永遠に時の流れを止めてしまった感覚に陥る。
けれど、さくらがふとその細い指をアゲハチョウに近づけると、昔からの決まりごとのようにそこに乗り移った。

「―――さあ、飛んで。残された時間はあとわずかだよ。」

さくらがその指先を夕日に掲げると、アゲハチョウは不思議なことにその言葉を理解したかのように羽を懸命にはばたかせ、やがて見えなくなった。


まだ、さくらはその飛んでいった方向からも眼を離さない。


「長い旅をしてきたんだって。その旅も、もうすぐ終わりに近づいたって・・・・」

そのいたわるような表情や眼差しに、小狼はさくらの心の海の広さ、芯の強さを見た気が
した。

「どうして、わかるんだ?」
小狼の言葉に、やっとさくらはこちらを向き恥ずかしそうに少し笑う。
「わかるんじゃないの、そんな気がするの!」

さっきまで、小狼の知らなかった一面を垣間見せていたさくらは、もういつもの屈託の無い顔に戻り、空を眺めて1番星を探し始めている。

大和撫子だ。

さっき、思い出しかけていた言葉。そうだ。さくらを見ていて心に浮かんだ。
かつて夜蘭の寝室に飾られていた、あのたおやかで凛とした姿を―――
小狼は、かつて日本と大和撫子に憧れていた事を思い出す。
初めて日本に降り立ったとき、そこに流れる空気が好きだと思った。


小狼は、さくらの背後から肩を両手でそっと掴んだ。
「・・・そんなに見上げると、ひっくりかえるぞ」
案の定、きゃ、と言ってバランスを崩し小狼のほうに背中が倒れる。
小狼の体に寄りかかりながら、さくらは頬をふわっと赤くさせた。
「小狼くんの胸、・・・あったかくて広いんだね。男の子・・・なんだね。」

さくらの自分に預けた体の重みが思ったより軽くて、小狼は不安になる。

―――こんなに危なっかしいのに。こんなにはかなげなのに。

そのまま両肩を守るように後ろから抱きしめ、小狼はそのほんのり赤い耳元で囁いた。
「・・・・ほら、あそこだ」
うつむいていたさくらに、小狼は空の一角を指差す。

そこには、小さな光で懸命にまたたく一番星。2人は、顔を見合わせて笑った。

「私あのキラキラしたの、ほし〜い!!」
「来年の誕生日まであったらな。」

そしてその星への遠い道のりを、楽しそうな声を辺りに響かせ、手をつないで歩き始めた。


その夜。夜蘭の寝室の片隅で、「大和撫子」は再び穏やかな微笑を浮べていた。
永遠に、夜のしじまに横たわる安らかな眠りを大切な者に与えるために―――。








                                       おしまい







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