異邦人






僕の存在には貴方が必要だ。

絶対に必要だ。

―――夏目漱石『それから』





この坂道を登りきると、あの教会の建物が見えてくる。

桜前線が急速に北上しつつある暖かい春の日。
気の向くままその前線を追いかけてみようかと、小狼はひとり散策をしていた。
その道の少し先で泣いている男の子が目に入る。

泣いてる奴は苦手だ。少しためらうが、スッと腰を落とす。
「どうしたんだ。言ってみろ。」

男の子はしばらく泣きじゃくり、教会の屋根をようやく指差した。

指先をたどってみれば、午後の眩しい日差しを存分にあびている教会の灰色の屋根、
その中腹あたりになにかが引っかかっている。

「あれ、おまえのか?」
「ウン。」

涙と鼻水でべたべたになった小さな顔が、ちらっと小狼を見る。

小狼はおもむろに立ち上がると、空を飛ぶような軽い跳躍で高い塀の上に1歩目をおき、
2歩目の跳躍で屋根の上にストンと立った。

その様子がどうやら、下から見ていた男の子の目にはこう映ったらしい。
『おにいちゃんがそらをとんだ!』
涙は自然に止まり、口がぽかんと開いた。

小狼は屋根の段差に上手い具合に引っかかってしまったモノに手を伸ばす。
ビニール製のサッカーボールだ。
(あんな小さな子が、ここまで蹴り上げたのか。)
少し驚いた小狼はクスッと笑い、未来の代表候補に声をかける。
「ほら、投げるぞ。」

男の子の丁度目の前で、何度か跳ねたあとボールは静止した。
しかしそれを手に取る様子もなく、眼を輝かせ小狼の顔を見上げたままだ。

「・・・?」
どうしたのだろうと小狼が思った瞬間、教会の扉が開き大人の女性が出てきた。
教会の屋根の上に登っているのはまずいかな。
そう思い、灰色の屋根の裏側にまわりこんでやり過ごそうとした。

「さあ、行くわよ。・・・なにぼけっとしてるの!?」
男の子の母親らしき女性が、そのもみじのような手をガシッと握って引っぱる。
しかし、なかなか動く様子が無い。
小狼がそーっと陰からのぞいてみると、男の子はこちらを指差し興奮して言った。
「ママ!あそこにいるおにいちゃんがね、そらをとんでボールとってくれたの!」
「え?どこにいるのよ?」
小狼は反射的に慌てて身を隠す。

母親は小さくため息をついて強引に手を引き、とうとう歩き出した。
「空を飛ぶ人間なんて、いる訳がないでしょう?もう、テレビばっかり見すぎちゃいけません!」
「ちがうよ!・・・本当に空をとんだんだもん。」
「はいはい。今度ママもそんな宇宙人みたいな人、会ってみたいわね。」

何度もふりかえりながら、坂道の下に消えてゆく男の子。
(かわいそうな事をしたかな・・・。)
小狼はそのまま屋根の上に腰をおろした。

が、すぐに身を起こし身構える。
「な・・・んだ、これは!」
すぐ近くで感じる、魔力の気配。
辺りをきょろきょろと見回し、その発する場所を見つけた。
この波動を小狼は知っていた。忘れるはずがなかった。
「おまえなのか?・・・柊沢。」
小狼の立つ本堂の、すぐそばにそびえ立つ尖塔。
その頂上から感じる魔力は本人が日本から去ってなお、この場に留まり続けているらしい。

(なぜ、こんなところに柊沢の気配が残っているんだ。)
小狼は、改めて自分の立っている場所から周囲をよくよく見渡した。

小高い丘の上にひっそりと佇むこの教会は、友枝町で最も高い場所にある。
町並みは一望でき、遠くは海まで見える気さえする。
その塔の頂上にいると、この世界が幻の箱庭のような感覚に陥るだろう。
はるか遠く北に友枝遊園の観覧車が確認でき、近く西には月峰神社の鳥居が見えた。

「そうか・・・。おまえはここで、俺の想像もつかない程色んなシナリオ考えていたんだな。」
彼もまた、考え悩み時には迷う事もあったのだと初めて思う。
あの柊沢でさえ。

「来てみろよ、さくらも。」
独り言とも思えぬ調子で、小狼は見えない相手に話し掛ける。
すると、屋根の反対側からそーっと恥ずかしげに一人の少女が現れた。

「やっぱり小狼くん、私のこと気付いてたんだね。あーん、くやしいなぁ!」
「でも、どこから尾行けられたのかは分からない。」
「ありがと、なぐさめてくれて。」
すねたような言葉とは裏腹に、さくらは首をかしげ嬉しそうに笑った。
自分の好きな人が、自分の存在にちゃんと気付いてくれる安心感。
気配を消して驚かす計画は失敗したが、さくらは満足だった。

「なにか見つけたの?さっき小狼くん・・・。」
「ああ。もうちょっと、こっちに来てみろ。」

教会の屋根は少し鋭角だからと、小狼はさくらの手をとり自分の隣へと慎重に導く。

「あっ!これ・・・エリオル君の気だ!なつかしい。」
「そうだな。」
「エリオル君、よくここに来てたんだね。全然知らなかった。」
「あいつの事だ、ここで悪巧み考えていたんだろう。」
「小狼くんたら、悪巧みだなんて。私たち・・ううん、私のためにしてくれた事だから。」
小狼のむうっとしたぶっきらぼうな物言いに、さくらはますます可笑しそうに笑った。

街並みに点在する緑の塊のなかに、ぽつぽつと薄桃色の部分がある。
この季節になって初めて、この街に桜の木がこんなにあったことに人々は気付く。
桜という木は、その小さな花びら一枚一枚が無数に集まって出来ているが、
そんなあたりまえの事が奇跡に思えるほど、その花はここから見ても存在感があった。
満開を咲き誇った後には全霊をかけて桜吹雪を舞い上げ、その渦の中で、
もう窒息すると思った瞬間、最後にはらはらと静かに散ってゆく。
そして、かつて穏やかに花弁を揺らしていた姿は、
まるで遥か遠い夢だったのだという気になる。

「桜はもうすぐ満開だ。」
「みんなお花見してるんだろうね。お祭りみたいな騒ぎがここまで聞こえてきそう!」
「ほんとうだな。」
「明日は私たちもするんだよ。ちゃんと覚えてる?」
「あ、ああ・・・わ、分かってるよ。」
ぎくりとした小狼は、今年もカラオケを歌えと迫られるのではないかと恐れていた。

(お祭りだ、今の季節は・・・。)

この季節、香港では格闘獅子舞という祭りがあった。
獅子舞に功夫を組み合わせたもので、狭い足場の上に登り、
相手の獅子を功夫で競り落とせば勝ちだ。
小狼は小さな頃、学校の友達に懇願されて参加した。
その時皆の喜ぶ顔が見たくてついほんの少し、魔力を使ってしまった。

「・・・小狼くんらしくないね。」
「だからその後、母上に相当怒られた。」

たかだか数年前のことなのに、小狼にははるか昔に感じられる。
あのとき、優勝してもらった扇子はどんな色だったろう?
偉は、苺鈴は、一緒に喜んでくれただろうか?

ぽつぽつと話していた小狼が一瞬黙り、そのこころがふっとこの場所を離れ、
行き場もなく彷徨った。

「気が付いたらこんなに遠くに来ていた、俺は―――。」

           『――そんな人間いるわけないでしょう?』
           『そんな宇宙人みたいな・・・』

先程の母親の言葉が小狼の脳裏によみがえる。

「俺は・・・宇宙人というより、異邦人かな。」
小狼はぼんやりと口にした。どこにも属さない、自由と言えば自由だ。

その横顔をさくらはじっと見詰めている。

自分のそばにいてくれるために、彼がどれほどの選択をして来たのか。
自分はその数さえ知らないのだ。
逆にそれを聞く事も、自分には許されていないのではないかと思う。

しかし自分を「異邦人」だと口にした彼。
伝えたい事があるのに、それが何なのか分からないもどかしさだけが募った。

さくらがそっと立ち上がったのに小狼は気付かない。

(遠くに?―――さっき俺はどこから遠いと思ったんだろう。)
小狼は自分の口からでた言葉を不思議に思う。
香港に思慕を残しているつもりは無かった。
自分の心はすっかりここに根付き、その過程でそれなりの決別もしてきた。
しかし生まれた街を忘れるはずもなく、香港も日本も故郷のような気がするし、
両方違う気もする―――。



「見てー!ここがこの街で一番高いんだよー。」

自分に呼びかける声で、不意に小狼は我に戻った。
振り向けば、さくらがいつの間にか尖塔の頂上にのぼっている。
その先端の細い部分を危なっかしく片手で握り、少し上から小狼を見下ろした。

「さくら・・・?おい、風が強いからあぶないぞ!」
「あのねー、小狼くんー。聞いてるー?」
「き、聞いてるから、じっとしていろ。」

まったく、どうしていつも危ない事するんだ。
小狼は、素早く立ち上がり屋根を伝って尖塔に近づいた。

「小狼くんはね・・・異邦人なんかじゃないよっ!」
「は?」
「だって、たとえ小狼君と言葉が通じなくても、お互い魔法がつかえなくてもね・・・。」

何言い出すんだと思いながら、小狼は逃げた鳥に近づくように静かにさくらの傍へ進む。

「きっとわたし、小狼君とすぐにお友達になって、そしてね・・・。」

今に風に飛ばされるのではとハラハラしている小狼に構わず、さくらは言葉を止めない。

尖塔の頂上より一段低いところに足をかけ、小狼はさくらの左腕をぱしっと強く握った。
(・・・よし、捕まえた。)
その瞬間、安堵感が小狼を薄く包む。

「―――そして、きっとわたし・・・小狼君に恋をしてた。」
「えっ?」

思わずさくらの顔を見上げる小狼。
さくらはその瞬間、先端をにぎっていた右手をぱっと離し、
ふわりと両手で小狼に抱きついた。
「小狼くんが、小狼くんだから、わたし好きになったんだよ。」

真っ先に満開を迎えた桜の花びらの、最初の一枚が風に舞った。

「さくら・・・。」

「・・・小狼くんがどこの誰でもよかったの、私にとってはただの男の子だから。
この世で、たったひとりの。」

小狼の耳元に聞こえる、まるで搾り出すようなさくらの声。
どんな言葉を選べば、この想いをちゃんと伝えられるのだろう?
人は人に、いったい言葉でどれだけの事を伝えられるのだろう?

小狼は左手で尖塔につかまりながら、右手でさくらをしっかりと抱きしめた。

「――ありがとう。」
「ううん。」
「・・・どうして、お前が泣くんだ。」
「わ、わからないの。自分でもわからない。」

その涙さえ一生懸命隠そうとするさくらを苦しめているのは、
ここに居る自分なのだと小狼は思った。
気付かずにときおり不安定になってしまう自分の存在が、愛する人を泣かせてしまう。
胸の中で甘く湿ったぬくもりを感じながら、
それでも自分はこの人が必要なのだと小狼は確信する。

「ごめん。・・・さっき、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。
上手く言えないけど・・・すまない。」
「ち、ちがうの、そうじゃないの!私が勝手に・・・ごめんね。」
「いや、俺が・・・。」
「ううん、私のほうが・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
顔を見合わせて、思わずぷっと吹き出す二人。
さくらの顔から、綻ぶような笑みがこぼれる。

その泣き顔が笑顔に変わるこの瞬間が、小狼の心を暖かいもので満たしてゆく。
浮いていた心がやっと、大地にたどりついた気分になる。
(あぁ、これが見たくて、俺はいつも泣き止ませようと必死になってしまうのか。)

風に飛ばされないようにさくらの腰をしっかり抱いたまま、
濡れた瞳ではにかむさくらの唇に、小狼は堪らず自分の唇を寄せる―――。



切なくて、愛おしくて、胸がいたくて、大好きで、そして訳もなく不安だった。

その日、いつまでも何度でも二人は唇を重ね合わせた。





こんなキスをしたことも、いつかきっと思い出にかわる。

今感じているこの気持ちも、遠い過去の話だと忘れ去られるのかもしれない。

だからこそ、どんな辛い瞬間でもかけがえがないと思う。

時間は過ぎ、形あるものは崩れ、人は色んな事を忘れてゆく。たくさん忘れてゆく。

それは事実だし、きっと自分もそうなのだ。

だけど、何度忘れても、何度でも思い出すだろう。

私が、私という存在になるためには、絶対に貴方が必要だった。

すべてはこの必然のもとに起こりうる事だったのだ、と――――



二人の背後で、大きくなった太陽が暖かい色にかわろうとしていた。







                                   おしまい




 じいま様コメント 

さくらちゃんお誕生日おめでとう&苺鈴もエリオルも先月のお誕生日おめでとう(名前のみ出演)
&小狼友枝町におかえりなさい記念日・・・・のお話のつもりです。
この桜の季節になると、原作のラストを連想するわたし。
その度に気になるのが、小狼の言った「香港でしなければいけない事」なんです。
なんだったんだあれ!と思うし、さくらちゃんには言えん事だろうな、とも思うんですよね〜。




ブラウザを閉じてお戻り下さい。